石原都知事のフランス語蔑視発言訴訟 報告集会のご案内

フランス語蔑視裁判の意義

2005713日に提訴した石原都知事のフランス語蔑視発言に対する訴訟について、930日に行なわれた第一回口頭弁論の報告を兼ねて、以下のとおり会を催します。140名収容できる大きな会場で、入場無料にて行ないます。どうぞみなさまご都合お繰り合わせの上、ふるってご参加ください。なお、主催者の小畑精和先生は原告団のメンバーでもあります。

日時:      20051028日(金)17451945
場所:      明治大学リバティタワー1106教室
               東京都千代田区神田駿河台1-1
               JR御茶ノ水駅下車徒歩5

プログラム:
1.        開会
2.        基調報告(酒井幸、弁護士)
3.        報告(新谷桂、弁護士)
4.        報告(菅野賢治、東京都立大学(旧制度)人文学部助教授)5.        報告(マリック・ベルカンヌ、フランス語学校校長・原告代表)6.        質疑応答
7.        閉会

(司会:小畑(おばた)精和(よしかず)、明治大学政治経済学部教授)

※ 入場無料

主催:            明治大学政治経済学部・小畑ゼミ
共催:            石原都知事のフランス語発言に抗議する会

酒井幸弁護士の基調報告

(石原都知事のフランス語差別発言)

「フランス語は、数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのもむべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万だ」

 これは、2003年10月19日、東京都庁の大会議室において行われた「Tokyo U-club」の設立総会での、石原都知事の発言です。「Tokyo U-club」というのは、東京都立大学が首都大学東京と改変されるに当たって、これを応援する企業が集まった会で、その発足の会合の席でのことです。都立大学の中でフランス語やドイツ語学科をどういう風に維持するのか、それともしないのか、という点が大変な問題となっていた、その流れの中での発言でした。この発言は翌日の毎日新聞に載り、また東京都庁のホームページでも動画付きで公開され、誰もが聞けるようになっていました。
 この発言に、都立大学の関係学科の先生方は大変怒られましたし、そのほか多くの方々も、怒り、あきれました。
そのほか、この発言に対する反応はいろいろあったと思います。「またつまらない発言をしたな」「ばかばかしい」「ここまでひどいのか」「まともに相手にする気になれない」「放っておけばいい」「どうせあんな人なのだから」という反応の方もおられると思います。こうした個々人の気持ちは、表面に出すまでは見えませんが、言葉に出し、行動を起こしたときに初めて分かります。

(返事の来なかった公開質問状)
 こうした中で一人、行動を起こした方がありました。それがマリック・ベルカンヌさんです。ベルカンヌさんは日本でフランス語の学校を経営しておられます。フランス生まれでフランス語を話し、長く日本に住み、日本を愛していらっしゃる方です。もちろん母国フランスも愛していらっしゃる。
  ベルカンヌさんはこの発言を聞いて、なぜこんな発言をしたのか、疑問を持たれたわけです。それを都知事に質問をしたい、ということで弁護士に相談され、まず公開質問状を出しました。これが今年(2005年)2月のことです。いきなり糾弾するのではなく、いわば石原さんにこのことについて聞きたい、という手紙を出したわけですが、返事は来ませんでした。
  みなさんどうでしょうか。「この発言を公開の場でどんなお気持ちでおっしゃったのか知りたい」という手紙があなた宛に来たとします。それを無視するというのはかなり意識的な行動ですね。特に公的な立場で行った発言ですから、返事をしてしかるべきでしょう。ところがベルカンヌさんに対して全く回答がなかった。他に大学の先生方も同じような行動をされましたが、これに対しても全く回答がなかったわけです。

(石原発言は明らかなまちがい)
 発言の内容は明らかに間違っています。フランス語は数を数えられない言葉だ、というのですから。使われている言語が数が数えられないものだったら、社会として成り立たちません。お金の計算もできず、日常生活が成り立たないでしょう。あたりまえのことですが、「フランス語は数を数えられる」というのが真実です。
石原さんは、「ちょっと口が滑っておかしなことを言っちゃいました」というのでしょうか。
  確かにフランス語は70から上の数の数え方が、日本人にとっては難しい。ですが難しいということと「数を数えられない」ということは歴然と違うわけです。「数を数えられない」となるとどんな原始的な言葉か、と思ってしまいますね。それを言い放しにして、理由もごめんなさいも言わない、という点が一つ、そして石原さんのこのような発言は今回が初めてではないという点が一つ、そういうことからベルカンヌさんはこのまま放置しておく気になれなかったのです。この先どうしたらいいかと考えた結果、一つの方法として、訴訟を起こすことを決めたわけです。

(おこしたのはこんな訴訟)
 どのような訴訟かということは、みなさんのお手元にある「訴えの要旨」とある資料をご覧下さい。裁判所に出した訴状をコンパクトにまとめてあります。
 (資料の)一番目の「発言について」、これは先ほどお話しいたしました。二番目に「原告らに対する名誉毀損」。現在21人の方が原告として訴訟を起こされています。この方がたは立場も様々ですが、共通するのは「こういうフランス語にしがみついている手合い」と言われたという「立場」です。フランス語に対する都知事の指摘は全くの嘘です。フランス語は数も数えられるし、国連やオリンピック委員会など国際機関で公用語になっています。ご承知だと思いますが、オリンピックのとき英語と並んでフランス語でアナウンスされますね。そうした国際機関でもフランス語は公用語として使われていますし、フランス語を公用語としている国もたくさんあります。こういう事実、現実から見てもこの発言は虚偽であります。そういう事実に反する石原さんの発言は、フランス語は数も数えられないほど原始的で稚拙な言語で、国際的には通用しない未熟な言葉であるという印象を与え、フランス語に対する世間の評価を著しく低下させました。
 先ほどの21人の原告を、私たちは5つのカテゴリーに分けました。一つは、フランス語を母語とする者。母語という言葉はみなさん耳に馴染んでいらっしゃるでしょうか、それとも母国語と言った方が分かりやすいでしょうか。実は私たちも初めは「母国語」と訴状に書いていました。でもさらに深めて考えてみますと、言葉というのは必ずしも国に対応はしていないのですね。民族も同様で、必ずしも国に対応してはいませんね。一つの民族がいろんな国にまたがって暮らしているということもありますし、民族間の混交、風俗の違う民族同士が結婚して二つの血が流れている、ということも頻繁にあるわけです。たとえば私の知り合いでフランス国籍の人に、あなたのネイティヴはどこですか、と聞いたら、12ほど入っているというのですね。ヨーロッパではこのような混じり方も普通ですから、言葉は国という単位でくくれないと言えます。「母語」という言葉は生まれ育って自分が最も馴染み親しんでいる言葉という意味で使われます。これは「母国語」という言葉自体が持っている問題を鋭く指摘していると言えるでしょう。私たちも初め訴状で「母国語」と書いておりました。それをきちんと指摘して下さった方がおられたので、言葉を問題にするこの訴訟で恥をかかないで済みました。そのように、一つ目のカテゴリーとして、まずフランス語を母語とする人、二つ目としてフランス語学校を経営している人、三つ目としてフランス語そのもの、あるいはフランス語によって様々な学問を研究し、教えている人、たとえば小畑先生のような方ですね、四番目に通訳や翻訳などフランス語を仕事の手段としている人、五番目としてフランス語を学んでいる人。こういう人はすべて「フランス語にしがみついている」と言うことができるので、5つのカテゴリーに分けました。こういう人たちは共通して、この発言によって非常に名誉を傷つけられた、プライドを傷つけられたということが言えるだろうと考えています。
 (資料)三番目の「本件発言の虚偽性と深刻な人格権侵害」というところですが、私たち、これは原告も弁護団も含めてですが、フランス語やフランス文化が他の言語や文化に比べてことさら優れたものである、ということでこの裁判を起こしたのではないことを、前提として確認しています。いま世界中には何千という言葉があるのですが、数え方によっては八千とか三千ともいわれます。似たような言語を一つにしてしまうのか、細かく分けるのかによって数え方が違うようですね。たとえばラテン語系というとフランス語、イタリア語、スペイン語などありますが、私は専門でないのではっきりと言えませんが、ちょうど日本でいえば東北弁と鹿児島弁ぐらいの違いに近いのではないかと思います。私も仕事で東北に行ったことがありますが、現地の方同士で話をしていると全然理解ができないのですね。いまは大体みなさん標準語が話せますから、標準語を話そうと思って話して下さるときにはきっちり分かります。でも地元の方同士が話しているときには瞬間的には何を話しているのかつかむことができない、ということもあり得ます。
  そういう風に、言葉というのは一つの言葉としてくくられているものでも、別の言葉とされているものでも大変多様なわけですが、それはそれぞれの民族・国家・地域の長い歴史の中ではぐくまれているものなのです。固有の文化そのものを反映したかけがえのない文化遺産と言えます。文化遺産というのは形のあるものと形のないものと両方あります。形のない文化遺産、伝統的な行事なども含まれますが、その中でも非常に重要なものが言葉というものだと思います。
 みなさんは、何かを「考える」ときは日本語で考えますね。外国語を勉強するときにその言語で考えなさいと言われますが、大変難しいことです。考えることも、現実の世界を認識することも、結局は自分の言語を通じて行うわけです。人格を形成するときには言葉があるわけで、それなしには考えられない。アイデンティティの骨格をなすものと言えるわけです。言葉とはそういう大事なものであり、どんな言語でも等しく敬意を払われるべきものです。
  そういうものの一つに対して、石原知事は全く事実に反した大変侮辱的な発言をしました。言葉の持つ意味を考えるとき、「またあんな発言をしたのか」ではすまされない非常に重要な問題だということがお分かりいただけると思います。

(この裁判が持つ意味)
 このようなことを背景に、私たちはこの発言を許すことができない、との思いで裁判という方向をとりました。この発言の持つ意味をどのような切り口で考えたらよいか、もう少しお話ししたいと思います。
  一つの切り口として、この発言は内容が間違っているということが挙げられます。間違っているままで放置することは許されない、訂正されなければならない訳です。間違っているということに関連して一つ述べたいのですが、70以上の数を数えるのが厄介だと思う気持ちの実体を見ていくと、やはり一つの偏見なのです。「フランス語は数を数えるのが難しい」とくくってしまうと、これは偏見と言うことができます。では日本語の数え方はやさしいでしょうか。日本語は十進法通りの数え方になっていますが、「ここに何人いる」とか「私は犬を2匹飼っています」と言いますね。小鳥は「一羽」、ウサギも「一羽」、蝶は「一頭」というのが正式な数え方です。外国人が日本語を勉強したときなんて難しいのだろうと思うわけです。4という数は「よん」とも「し」とも読みます。9は「きゅう」とも「く」とも言います。これ全部を適当に使い分けすることは外国の方にとっては大変難しいわけですが、これをもって「日本語は数の数え方が難しい」と言ってしまうのは一つの偏見だと思います。こういう自分の中にある偏見に対してしっかりと目を開くことが大事だということを、この発言は教えてくれました。
 二つめの切り口、それは都知事という立場にある人がこんな発言をしていいのだろうかという問題です。私やあなたはしてもいいけれど、都知事は許されない、というように、立場によって許される、許されないということがありますね。この場合は都知事が、しかも公的な場でこのような発言をしています。フランス語については今回が初めてではありませんし、フランスに対してだけではなく「三国人発言」などもありました。高年齢の女性に対する発言などもあります。「都知事という立場で言われるということ、そして誤った発言を繰り返すということ、これは政治家としては許されない」、「都知事の名で言われたことは見過ごせない」「こういう発言をしていることを世間に公表するべきである」「日本の国際的な信用と信義をおとしめるものである」という意見を、この訴訟の賛同者の方から多く寄せられました。都知事であるからよけいに許せないと言う切り口です。
 そして三つ目は言語文化をどう見るかという問題です。言葉というものがどういう風に大事かということは申し上げましたが、さらにいえば、異文化に対する配慮に徹底的に欠けているという点です。
  文化の多様性を尊重することは、いまの私たちにとってもこれからの社会にとっても非常に重要な課題です。私たちがこの地球上でいかに共存していくか、地球上に生をうけている人間、動物、生物すべてがいかに共存していくかを考える上で、文化の多様性の尊重は不可欠なことです。これはいまや常識と言っていいでしょう。一つの文化、他の文化を否定するということは、自分の文化も貶めるものではないかという指摘、言語批判は文化批判と同じであるとか、あるいは他者に対する愛情、敬意が欠如しているとの指摘も賛同者の中からありました。世界中でいま多くの日本人が生活しているわけですが、他者の理解が無くしてはコミュニケーション自体が成り立っていかないのです。それは私たちが国外に出たときもそうだし、国内で外国人を受け入れるときも同じです。異文化をどう理解し共存していくかということが、三つ目の切り口といえます。

(異文化体験・・・私の場合)
 ここで石原問題から離れて、なぜ私がベルカンヌさんの気持ちやそれに共感する原告・賛同者の方々の気持ちに共感して、一緒にこの裁判をやる気になったのか、触れておきたいと思います。
  私は15年くらい前に文化の問題を考える機会を持ちました。具体的にはカンボジアのアンコール遺跡の保存修復活動の調査団に弁護士として参加したときです。文化財を保護するに当たって、文化財保護法はどうするかといった件で、多少の関わりを持ちました。子どもの頃にアンコールワットの写真を見て、ぜひ行ってみたいと強く思っていましたが、長く内戦が続き、とても行かれる状態ではなく、ようやく1990年になってからその機会を得たのです。まだ内戦の終わってない頃です。西側諸国はまだカンボジアを国として承認していない頃でしたから、修復のための調査団はまだほとんど入っていませんでした。その中で現在上智大学の学長になっておられる石澤良昭先生が、カンボジアとの古いつながりから、修復のための小さい調査団を組んで細々活動されていました。機会があってそのメンバーに加わることができて以来、この国と関係してきました。まだ遺跡の前に戦車がいる頃だったのですが、その後1年経ってパリ和平協定が結ばれました。
  当時、あの疲弊しきった国を見たとき、大変なカルチャーショックを受けました。その惨めな状態に置かれている人々が、「私たちの誇りはアンコールワットだ」というのです。「私たちの祖先はあんなすばらしいものを作った。その末裔であるということが私たちの唯一の誇りだ」というのですね。一つの文化が逆境の中で人が生きることの支えになるほど大きなものだということをその時しみじみと知りました。
  私たちの調査団は、再興した現地の芸術大学の学生さん達と一緒に活動してきていますが、その人たちとはカンボジア語のできる通訳を介して、カンボジア語で分かるようにすることを一つの原則にしました。そして調査結果もカンボジア語にして現地に返すということを守りました。このように現地の人たちと共同で、車の両輪となって活動するというスタンスをとり続けたのです。その中で私は、翻訳するということの持つ意味を、考えるようになったのです。
  カンボジアはまだ法制度が十分整っていませんでしたから、この遺跡調査団とは別に、弁護士達が法制度整備の支援をしようと年に何回か出かけ、プノンペン大学の方と交流しました。その中で、法律というものの基本的な枠組みが分かるような、やさしい日本語で書かれた本をカンボジア語に翻訳して現地の学生さん達に贈ることにしたのです。カンボジアは元フランス保護領だったため、フランス語を理解する人が多く、それは私がフランス語を勉強するきっかけでもあったわけですが、和平協定成立以後は英語文化がどんどん入ってきて、英語を勉強する人も増えています。でも、一部の人が英語やフランス語で法制度を理解しても、結局は法律が復旧しやすい形でカンボジア語にならないと、国民全体に行き渡らないのです。だから「英語やフランス語を勉強して法律を理解しなさい」という傲慢な態度ではなくて、カンボジア語そのものにすることで、法律が広く染み渡って行くだろうと考えたのです。著作権なんかいいから海賊版を出して下さい、というくらいの気持ちでした。
  そういう活動を通して、私は言葉の大切さをしみじみ感じました。そして一時期外国人としてフランスにも住みました。自分が人間としていかに尊重され、相手に認めてもらえるかということは、自分が日本語という言葉を話すということも含めて、総体として丸ごと理解してもらわないといけないわけです。「日本語なんて一つの国でしか通用しないお粗末な言葉だ」といわれたら、私だって頭に来るでしょう。そういう経験があって、ベルカンヌさんの怒り、たとえば小畑先生の怒りというものが、自分のことのように分かる気がしたのです。

 この裁判は実は難しい裁判なのですが、これからこの地球上で、たくさんの人たちが多様な文化を理解し合い共存して生きていくことを目指すためには、こういう問題は放ってはおけない、という思いが、私がこの裁判をきちっとやりたいと思う一番の理由です。原告の方も非常に魅力的な方たちが多いです。ぜひ原告も賛同者も増えて、この裁判が、石原さんの失言をやり玉に挙げるといった小さい問題ではなくて、地球や人間を考える大きなスケールを持ったものだということを、たくさんの方々に理解していただけたら嬉しく思います。